傍に居るなら、どうか返事を 「やれやれ。これじゃあ、みぬきと変わらないなぁ。」 成歩堂が肘を置くと、新しくもない建物の扉はギシリと鳴った。視線を下ろして、少年を眺めポツリと呟く。 完全な子供扱いは、響也が耳にしたのなら手酷い反発が返ってくるのだろうが、規則正しい寝息が聞こえるのみ。眠っていても、片手にはしっかりと書類を握っている様が妙に律儀だ。それを指先から抜き取って、紙束の上に重ねる。 悪戯心が沸いて、かけているサングラスのブリッジを指で挟み、ゆっくりと引き抜くと、現れる素顔は驚く程に幼く無防備で、成歩堂ですら一瞬毒気を抜かれた。 「Fools rush in where angels fear to tread.…とは、良く言ったものだな。」 (天使が踏み込むのを恐れる場所へ愚者は飛び込む) 事務所を眺め、響也が呟いていた言葉だ。日本語に訳せば、君子危うきに近寄らず。意図はないのだろうが、この喩えからすれば、響也は天使という事になる。 否定の要素がない辺り、大したものだと成歩堂は思う。 まして、あれだけ警戒心を抱いていた男の前で、此処まで無防備になれる神経も神業の領域かもしれない。 成歩堂は、普段自分が昼寝用に使っている毛布をみぬきのマジック道具が重ねてあるピアノの下から取り出し、テレビを消すと、もう一度響也の前にしゃがみ込んだ。 覚醒を促すべく、肩に手を置いて軽く揺する。 天使の寝顔をしていても響也は立派な男で、遊び疲れた娘を抱き上げて寝かしつけるのとは訳が違う。ウエルター級のお姫様だっこなど試みたら、確実にぎっくり腰になるだろう事が容易に予想出来た。 此処まで疲れている相手に可哀相な気もしたが、自分の脚で歩いて家に帰るなり、事務所のソファーで寝るなりしていただかないと、遺棄罪とか言い出されかねない相手でもある。それもナカナカに面倒だ。 「響也くん。こんなところで寝ていると風邪を引くよ?」 しかし、数回揺すっても、んとかうとか口にするものの、一向に目覚める気配がない。枕が変わっても寝られないんだ僕…なんて繊細な事を言いそうな顔だが、意外と大雑把な順応性が高い性格なんだろうか。疑問と共に、その端正な貌を指でつついてやる。指先を滑る滑らかな感触は、掌で感じた唇の心地良さを蘇らせ、成歩堂は苦く笑った。 眠っている相手に欲情するほど、相手に困っている訳ではないし、溜まってもいなかった。それは本当だ。 なのに、誘われるように上下の唇で挟み軽く触れる。直接感じる柔らかさと甘さは、僅かな時間ではあったが成歩堂の思考を慾に染めそうになる。更なる刺激を求める前に顔を離すと、響也がうっすらと瞼を上げた。 長い睫毛が瞬く。 「眠り姫には、キスするもんだね。」 笑って告げてやる。激昂するだろうという成歩堂の予想は裏切られ、響也はふわりと微笑んだ。 「ん。ありがと…。」 そのまま首に腕を回す仕草は余りにも自然すぎて、成歩堂は反応出来なかった。胸元に頭を押し付けて眠ってしまう無防備さには溜息が出る。 「やれやれ。」 観念したように、ふたりの身体にかかるよう毛布を広げる。そして、ニット帽を深く下ろし目を閉じた。鼻を擽るのは、兄とは違う響也の甘い香り。意外と長い夜になりそうだと、成歩堂は呟いた。 現状を把握するには、暫くの時間を必要とした。 何をどうしたら、男とふたりで毛布にくるまって眠っているという状況になるんだろうかと、響也は頭を捻る。悲鳴でも上げて蹴り飛ばした方がいいのかと、物騒な事を考え、女の子じゃないんだからととり止める。 酷く疲れていたから、睡魔に負けて眠ってしまったんだろう。それは理解出来る。けれど、なんでこの男と一緒に寝ていたんだろうか。それだけは不思議だ。 そうして、真横で寝ている男の顔を覗き込む。 じっくりと顔を見たことなど無かったが、黙っていれば整った顔立ちだ。少しばかりヨレた印象も、男の色香と称すれば魅力的にも写るかもしれない。 特に、余裕のある笑みは、自分が張っている虚勢とは比べものにならない強さを感じる。 …って何を考えているんだ、馬鹿馬鹿しい。 慌てて思考を遮って、響也は赤面した。無精髭だらけの男に魅力を感じるなんてどうかしている。 言い訳じみた理屈を考えて、昨日資料を読んだせいなのだろうかと思いつく。 そこに記されていた彼は、確かに素晴らしい公判を行ってきた彼そのものであり、諸先輩方から恐れられ一目置かれる(成歩堂龍一)自身だった。捏造の資料を持ち出してでも、勝訴に執着する男は、文面の中に探し出すことが出来なかった。 矛盾が響也の思考を支配する。あの公判を終えた時から、拭う事の出来ない懸念が鼓動を早めた。振り切るように、響也は頭を振った。 やはりどうかしている。捏造品を提出されたのは自分自身ではないか。自身の目で見たものを信じないで、一体何を信じると自分は言いたいのだろうか。 きっと成歩堂はそれなりに優秀な男で、ただ、あの時は魔が差したと考える方が理にかなっている。それが、どうして自分の初公判だったのかだったのかは、もはや考えまい。考えたところで、どうなるものでもないのだ。 ゆっくりと毛布の中から抜け出しても、成歩堂は身じろぎをひとつしただけで目を覚まさなかった。響也は訳もなく安堵する。 今、顔を会わせてたら、ただ照れくさいだけのような気もした。 響也は両腕を大きく振って背を伸ばして、軽く首を回した。睡眠の体勢的に無理があったせいか、腰だの尻だのは痛かったが、気分的にはさっぱりした心境だった。 軽いストレッチで身体はどんどん目覚め、窓から差し込んでくる朝陽もなかなかに気持ち良い。 こういう朝は、悪くない。 「ありがとう、成歩堂さん。」 開きっぱなしの資料庫の扉を閉め、ソファーに投げてあった鞄を手に戸口へ向かう。サングラスを掛けて、一度だけ室内を振り返り響也はそう告げた。 完全に足音が遠ざかってから、眠っていた筈の成歩堂の口角が上がる。 「どういたしまして。」 ふわわと大きな欠伸をしてから、成歩堂はソファーで横になるべく身体を起こした。 content/ next |